善の研究:第三編 善:第十一章 善行為の動機(善の形式)
善の研究:第三編 善:第十一章 善行為の動機(善の形式)
上来論じた所を総括していえば、善とは自己の内面的要求を満足する者をいうので、自己の最大なる要求とは意識の根本的統一力即ち人格の要求であるから、これを満足する事即ち人格の実現というのが我々に取りて絶対的善である。而しかしてこの人格の要求とは意識の統一力であると共に実在の根柢における無限なる統一力の発現である、我々の人格を実現するというはこの力に合一するの謂いいである。善はかくの如き者であるとすれば、これより善行為とは如何なる行為であるかを定めることができると思う。
右の考よりして先ず善行為とは凡すべて人格を目的とした行為であるということは明あきらかである。人格は凡ての価値の根本であって、宇宙間においてただ人格のみ絶対的価値をもっているのである。我々には固より種々の要求がある、肉体的欲求もあれば精神的欲求もある、従って富、力、知識、芸術等種々貴ぶべき者があるに相違ない。しかしいかに強大なる要求でも高尚なる要求でも、人格の要求を離れては何らの価値を有しない、ただ人格的要求の一部または手段としてのみ価値を有するのである。富貴、権力、健康、技能、学識もそれ自身において善なるのではない、もし人格的要求に反した時にはかえって悪となる。そこで絶対的善行とは人格の実現其者そのものを目的とした即ち意識統一其者の為に働いた行為でなければならぬ。
カントに従えば、物は外よりその価値を定めらるるのでその価値は相対的であるが、ただ我々の意志は自ら価値を定むるもので、即ち人格は絶対的価値を有している。氏の教は誰も知る如く汝および他人の人格を敬し、目的其者 end in itself として取扱えよ、決して手段として用うる勿なかれということであった。
然らば真に人格其者そのものを目的とする善行為とは如何なる行為でなければならぬか。この問に答うるには人格活動の客観的内容を論じ、行為の目的を明にせねばならぬのであるが、先ず善行為における主観的性質即ちその動機を論ずることとしよう。善行為とは凡て自己の内面的必然より起る行為でなければならぬ。曩さきにもいったように、我々の全人格の要求は我々が未だ思慮分別せざる直接経験の状態においてのみ自覚することができる。人格とはかかる場合において心の奥底より現われ来きたって、徐おもむろに全心を包容する一種の内面的要求の声である。人格其者を目的とする善行とは斯かくの如き要求に従った行為でなければならぬ。これに背そむけば自己の人格を否定した者である。至誠とは善行に欠くべからざる要件である。キリストも天真爛漫嬰児えいじの如き者のみ天国に入るを得るといわれた。至誠の善なるのは、これより生ずる結果の為に善なるのでない、それ自身において善なるのである。人を欺くのが悪であるというは、これより起る結果に由るよりも、むしろ自己を欺き自己の人格を否定するの故である。
自己の内面的必然とか天真の要求とかいうのは往々誤解を免れない。或人は放縦無頼ほうしょうぶらい社会の規律を顧みず自己の情欲を検束せぬのが天真であると考えておる。しかし人格の内面的必然即ち至誠というのは知情意合一の上の要求である。知識の判断、人情の要求に反して単に盲目的衝動に従うの謂ではない。自己の知を尽し情を尽した上において始めて真の人格的要求即ち至誠が現われてくるのである。自己の全力を尽しきり、殆ど自己の意識が無くなり、自己が自己を意識せざる所に、始めて真の人格の活動を見るのである。試に芸術の作品について見よ。画家の真の人格即ちオリジナリティは如何なる場合に現われるか。画家が意識の上において種々の企図をなす間は未だ真に画家の人格を見ることはできない。多年苦心の結果、技芸内に熟して意到り筆自ら随う所に至って始めてこれを見ることができるのである。道徳上における人格の発現もこれと異ならぬのである。人格を発現するのは一時の情欲に従うのではなく、最も厳粛なる内面の要求に従うのである。放縦懦弱だじゃくとは正反対であって、かえって艱難かんなん辛苦の事業である。
自己の真摯しんしなる内面的要求に従うということ、即ち自己の真人格を実現するということは、客観に対して主観を立し、外物を自己に従えるという意味ではない。自己の主観的空想を消磨し尽して全然物と一致したる処に、かえって自己の真要求を満足し真の自己を見る事ができるのである。一面より見れば各自の客観的世界は各自の人格の反影であるということができる。否各自の真の自己は各自の前に現われたる独立自全なる実在の体系その者の外にはないのである。それで如何なる人でも、その人の最も真摯なる要求はいつでもその人の見る客観的世界の理想と常に一致したものでなければならぬ。たとえばいかに私欲的なる人間であっても、その人に多少の同情というものがあれば、その人の最大要求は、必ず自己の満足を得た上は他人に満足を与えたいということであろう。自己の要求というのは単に肉体的欲望とかぎらず理想的要求ということを含めていうならば、どうしてもかくいわねばならぬ。私欲的なればなる程、他人の私欲を害することに少なからざる心中の苦悶を感ずるのである。かえって私欲なき人にして甫はじめて心を安んじて他人の私欲を破ることができるであろうと思う。それで自己の最大要求を充みたし自己を実現するということは、自己の客観的理想を実現するということになる、即ち客観と一致するということである。この点より見て善行為は必ず愛であるということができる。愛というのは凡て自他一致の感情である。主客合一の感情である。啻ただに人が人に対する場合のみでなく、画家が自然に対する場合も愛である。
プラトーは有名な『シムポジューム』において「愛は欠けたる者が元の全き状態に還らんとする情である」といっている。
しかし更に一歩を進めて考えて見ると、真の善行というのは客観を主観に従えるのでもなく、また主観が客観に従うのでもない。主客相没し物我相忘れ天地唯一実在の活動あるのみなるに至って、甫めて善行の極致に達するのである。物が我を動かしたのでもよし、我が物を動かしたのでもよい。雪舟が自然を描いたものでもよし、自然が雪舟を通して自己を描いたものでもよい。元来物と我と区別のあるのではない、客観世界は自己の反影といい得るように自己は客観世界の反影である。我が見る世界を離れて我はない(実在第九精神の章を参看せよ)。天地同根万物一体である。印度インドの古賢はこれを「それは汝である」 Tat twam asi といい、パウロは「もはや余生けるにあらず基督キリスト余に在ありて生けるなり」といい(加拉太ガラテア書第二章二〇)、孔子は「心の欲する所に従うて矩のりを踰こえず」といわれたのである。